革エプロンおやじ

おやじのポケットの中身を紹介していこう!

皆さん、こんにちは。革エプロンおやじです。

還暦を迎えたおやじのポケットの中身を紹介して行きます

男性目線からの生活の楽しみ方になりますが、女性ブロガーも歓迎です。

北斎展巡りから周辺を追う

六本木で行われていた新北斎展が日曜までという情報を基に是非行こうと思い立った。

そうしたら、両国にあるすみだ北斎美術館もあるという事になり、双方に行くことになった。

その前に浅草橋でカバン金具の購入及び昼食を取り、活動を開始した。

昔の花街だった事を語る芸鼓組合が担うお稲荷様、屋形船のベース基地になっていることや未だに料亭の趣のあるお店などに名残を感じる事ができる。だが既に花街の機能はないと聞いている。

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柳橋のお稲荷様

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そこから、隅田川にかかる両国橋を渡って墨田区になる。

両国橋を渡ったところに回向院がある。お寺です。明暦の大火(1657年)に江戸が大きく焼けた後に10万人の死傷者を弔うためにできたお寺です。その後は何でも受け入れるお寺として、水子や動物も扱うお寺になっています。もちろん今のペットブームでの利用もあるようです。

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回向院

他には大相撲の発祥の地(1768年)であり力塚と書いた大きな石碑がある。それがもとでこの地にできた日大講堂、蔵前にできた旧国技館、今の両国国技館へと引き継がれていく。

他にあるのが鼠小僧治郎吉(1797~1832年)の墓がある。いわゆる泥棒であったが、金持ちから巻き上げた金銭を貧しい人に恵んでやったという逸話のある人だ。

よって、その墓石を石でくすって財布に入れるとお金がたまるという逸話が残っていて、今でも続いていて、説明書きがある。これを無視するわけにもいかずゴシゴシしてきて、粉をいただいて来た。

そこからしばらく歩くと北斎美術館に着く。特に並ぶ事もなく入れる。隅田川両岸景色図巻が素晴らしい。両国から吉原までの川の風景を描いたものだ。

この後、両国駅から大江戸線で六本木まで行く。新北斎展は森アーツギャラリーで行われている。混んでいる。入場までに70分かかると係員に説明を受ける。チケット購入までに40分、入場までに30分かかるという。でも、ここまで来たのだから並ぶしかない。

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黒い方が招待券

チケット列に並び初めると女性から声がかかり、招待券が2枚余っているのでもらってくれませんかと、信じられない話。購入しますよといったが差しあげますという事に。何という幸運なんだという思いで頂戴した。早速、鼠小僧治郎吉のご利益があったのかなと思ってしまった。これで40分を節約だ。その後入場までも10~15分ほどで通過する事が出来た。

北斎展に関してはテレビでも十分に取り上げられているので、既にご存知の方も多いだろう。構図や浮世絵の色合いなど葛飾北斎は正に天才といえる。この展示会での出品数は圧倒的であり、90歳まで生きたという事で作家人生は長かった事を考慮しても素晴らしい。晩年の富士山から黒い雲に交じって竜が天に上る事で自分を描いたものは素晴らしいに尽きる。アメリカにもヨーロッパの画家達が収集し影響を受けた事も合点がいく。日本の絵画界の実力派分からないが、キャプテン翼を小さい時に読んでサッカーに興味を持ったというプロサッカー選手が世界にあまたいるのと通じるものを感じる。

本日のルートから葛飾北斎(1760~1849年)の時代に興味を持った。

この年代は、鼠小僧治郎吉(1797~1832年)と同じ時代を過ごしたといえる。江戸時代(1603~1868年)を考えると明暦の大火(1657年)は江戸初期の出来事であり、この大火を持って江戸市民を大川の向こうにも逃げれるようにしようと作ったのが両国橋(1659年)であり、浅草吉原に遊郭が移転してきたのもその時期だ。

柳橋に花街ができて芸鼓がいたのが1804~1817年頃からであり、1859年にはかなりの華やかさがあったようだ。この時期が北斎、治郎吉とも年代的には重なる。

もちろん北斎には浅草吉原、花魁、両国橋、美人画も登場して様々な背景と重なってくる。

今回、すみだ北斎美術館に行くだけなら総武線で両国まで行けばよかったが、浅草橋からのスタートになった。これによって柳橋⇒両国橋⇒回向院を経る中で明暦の大火から始まる一連の出来事をレビューすることができた。何と粋な事ではないか。